エーミール・シュタイガーEmil Staigerとヴォルフガング・カイザーWolfgang Kayserによって提唱された「作品内在解釈法die werkimmanente Interpretation」。この学問の方法は、旧来の文学研究方法を時代遅れのものにした。すなわち、作品を創作者との関係で論じる研究方法である(例えば、ディルタイの『体験と創作』)。
この時点を契機に、以降、創作者を度外視した様々な作品解釈方法が、あるいは文学研究流派が次々と生まれ出た(ロシア・フォルマリズムや受容理論など)。
私もまた、文学研究の方法としてこの方向を支持する――自分の私的印象に創作者の伝記的要素を適当に織り交ぜて批評している、無反省な文学研究者を横目で見やりながら。
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戦後の音楽批評もまた、文学研究方法の変化と並行する形で変遷発展してきたのだろう。すなわち、作曲家の状態を無視する形で(例えば、メルスマンの『音楽と現象学。時間と音楽』)。
しかしながら、ベートーヴェンの音楽を聴くとき、私は創作者の精神的態度や伝記的要素を度外視することができなくなる。弦楽四重奏第7番の第三楽章、あるいはピアノ協奏曲第5番の第二楽章、交響曲第6番の第二楽章、あるいは作品番号106のピアノソナタ『ハンマークラヴィーァ』第三楽章を聴くとき。
これらの曲には耳目を引き付けるような派手さはない。比喩的に表現することが許されるならば、それらは湖の静寂さそのものである。それにも関わらず、私は大きな驚愕と共に問わずにはおれなくなる。一体、どのような人が己の体験から知っているのだろうか?あの極度に繊細な感情の揺れ、おそらくほとんどの人が見落としているであろうような精神の極めて微妙な色具合を。悲痛の響き中に希望が、苦悩の中にも歓喜への予兆が、逆に、暖かな幸福感の中に冷たい憂いが。
私は問う、これを知る人はよほどの体験を積み重ねてきた人物に違いないのではなかろうか。また、ただ単に体験を積み重ねただけではなく、それらの体験が喚起する精神の揺れを大から小に至るまで把握し、それを表現する強い意志の力を持っていた人に違いないと。
私はベートーヴェンの伝記を2,3の著書で読み知っているが、しかし、たとえ私がそれを知らなくとも、曲だけでベートーヴェンの人物像と抽象的意味における伝記的要素を推測することができるであろうし、彼の曲を聴いただけで、これを創り出した人物の精神への畏敬の念で満たされる。
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結局、作品と創作者とは不可分であるという命題は、私の文学研究への態度に反して、真実である。文学作品とは、それを生み出した創作者の生そのものの表出である。
死の直前まで「いかに生きるか」という課題に苦悩したトルストイ、流刑に処されて銃殺刑 目前まで至ったドストエフスキー。彼らの言葉には重みがある。たとえ彼らの伝記を知らなくとも、彼らの作品を読む者は、重々しい精神の刻印を感じ取るに違いない。
昨今の文学作品や散文の類を目にすると、言葉だけが独り歩きしているように感じられる。確かに、皆はある程度高い教養もあり、多くの学術用語も知っている。が、しかし、何かが足りない。重さなのだろうか。言葉に彼らの存在そのものが追いついていない状態。あたかも、中学生が覚えたての、使用法も意味もわからない小難しい述語をぺダンチックに書きなぐっているだけに思われる。多量に垂れ流される述語の群れ。言葉の意味が慎重に吟味されることなく、自分の経験と照らし合わされることなく。
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