Sorge(憂い)
「誰でも私につかまると、その人には全世界が無益のものになります。永遠の闇がかぶさってきて、太陽は登りもしなければ沈みもしない。・・・行こうか戻ろうか、決心が付かないのです。大きな坦々たる道の真ん中で、足元がよろよろするのです。・・・窒息はしないまでも生きた心地がしない。絶望はしないが、釈然とはせず、絶えず右往左往して、諦めるには辛く、無理にやるのも厭で、解放されたかと思うと束縛され、眠りも浅く、心から休めず、だからその場で立ち往生で、とどのつまりは地獄行きなのです。」――『ファウスト』高橋義孝氏の訳を使用
ゲーテの『ファウスト』に、「憂い」が擬人化され登場するシーンがあるが、そこで「憂い」が話す内容である。
大きな絶望はないが、さりとて喜びもない。自分を根底から打ちのめすような苦痛もないが、さりとて心底湧き出る歓喜もない。これ以上耐え切れぬほどの苦闘もないが、さりとて、苦闘が過ぎ去った後の安らぎもない――私はこのようなことを、ゲーテの叙述から読み取った。要約して言えば、絶望できぬことへの絶望(キルケゴールの「無限なるものへの絶望」と「地上的なるものへの絶望」をも合わせて考えていただきたい)、そして苦悩できぬゆえの、あるいは苦悩への勇気が欠けていることへの苦悩である。
シューマンの交響曲第三番『ライン』の第3楽章「厳かに」を聴いていて、私は『ファウスト』のこの叙述を思い出した。第一楽章の雄大さ、第二楽章の朗らかさはすっかり姿を消し、ここ第三楽章に来て、憂いが曲調を支配し始める。悲嘆もなく苦悩も無い。しかし喜びも真の安らぎも無い。あるのはただ、上に述べたような憂いだけである。そしてもしも安らぎがあるとすれば、それは何かを克服したという満足感から来るものではなく、「何もない」ということへの虚無的な安らぎである。
私が苦手としている曲調である。ちなみにこれは、私が見るところ、ブルックナーのほとんどの交響曲に共通している。私はそれ故に、ブルックナーのものを聴かないようにしている。底なしの虚無感、絶望できぬことへの絶望。
――――
ちなみに、シューマンの『ライン』は、第4楽章でまたもや生き生きとした曲調を取り戻す。これがある故に、私はこの曲を好んで聴くことができる。
最近のコメント