2008年5月 5日 (月)

饒舌な人間に相対する時

『文学部唯野教授』(筒井康隆著)に、唯野というかなり饒舌な主人公が出てくる。彼の意味のない、大量の言葉の垂れ流しは、それを虚構世界(作中世界)のこととして接している限り、ただ単に「面白い」という感想で済む。読み手である私は、虚構世界の出来事とは距離を取り、ゆったりと構えてそれを経験するからである。

しかし、現実に饒舌な人間と相対する時、それが男であれ女であれ、私は狼狽する。彼(女)の饒舌は、私に考えるゆとりを与えない。一挙に放出される大量の言葉の中から重要な意味を取り出す作業もままならない。結果として、私は疲れるだけである。

そうして、私は話しを聴くことを意図的に止め、ただ単に相槌を打つだけになる。多くの言葉をもってしても何も伝達できないこと、それを私は饒舌という。

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2008年5月 4日 (日)

見ることを学んでいる

「ぼくは見ることを学んでいる。どういうものか、見るものすべてが一層深くぼくの内部へ入り込んできて、いつもおしまいになるところへ来てもいっこうに止まろうとしない。ぼくの内部には、自分でもわからない深い淵があるらしい。今はすべてがそこへ向けて落ちていく。

そこで何が起こっているのか、ぼくは知らない」

リルケ『マルテの手記』より

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2008年4月25日 (金)

憂いと虚無、そして絶望できぬことへの絶望

Sorge(憂い) 

「誰でも私につかまると、その人には全世界が無益のものになります。永遠の闇がかぶさってきて、太陽は登りもしなければ沈みもしない。・・・行こうか戻ろうか、決心が付かないのです。大きな坦々たる道の真ん中で、足元がよろよろするのです。・・・窒息はしないまでも生きた心地がしない。絶望はしないが、釈然とはせず、絶えず右往左往して、諦めるには辛く、無理にやるのも厭で、解放されたかと思うと束縛され、眠りも浅く、心から休めず、だからその場で立ち往生で、とどのつまりは地獄行きなのです。」――『ファウスト』高橋義孝氏の訳を使用

ゲーテの『ファウスト』に、「憂い」が擬人化され登場するシーンがあるが、そこで「憂い」が話す内容である。

大きな絶望はないが、さりとて喜びもない。自分を根底から打ちのめすような苦痛もないが、さりとて心底湧き出る歓喜もない。これ以上耐え切れぬほどの苦闘もないが、さりとて、苦闘が過ぎ去った後の安らぎもない――私はこのようなことを、ゲーテの叙述から読み取った。要約して言えば、絶望できぬことへの絶望(キルケゴールの「無限なるものへの絶望」と「地上的なるものへの絶望」をも合わせて考えていただきたい)、そして苦悩できぬゆえの、あるいは苦悩への勇気が欠けていることへの苦悩である。

シューマンの交響曲第三番『ライン』の第3楽章「厳かに」を聴いていて、私は『ファウスト』のこの叙述を思い出した。第一楽章の雄大さ、第二楽章の朗らかさはすっかり姿を消し、ここ第三楽章に来て、憂いが曲調を支配し始める。悲嘆もなく苦悩も無い。しかし喜びも真の安らぎも無い。あるのはただ、上に述べたような憂いだけである。そしてもしも安らぎがあるとすれば、それは何かを克服したという満足感から来るものではなく、「何もない」ということへの虚無的な安らぎである。

私が苦手としている曲調である。ちなみにこれは、私が見るところ、ブルックナーのほとんどの交響曲に共通している。私はそれ故に、ブルックナーのものを聴かないようにしている。底なしの虚無感、絶望できぬことへの絶望。

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ちなみに、シューマンの『ライン』は、第4楽章でまたもや生き生きとした曲調を取り戻す。これがある故に、私はこの曲を好んで聴くことができる。

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永遠の古本屋

私が時折訪ねる小さな古本屋。ここの空間を不思議な空気が支配している。時間があたかも50年ほどAntiquariatinnenasicht2前に止まったかのような、そのような不思議な空気である。

この古本屋は、初老のご夫婦が営んでいる。ご主人が店番の時は、モーツアルトのピアノ曲が、奥さんが店番の時は、フォーレやドビュッシーのフランス歌曲がいつも流れている(奥さんのほうはフランス人である)。

数十年前も彼らはこの店に座り、同じ曲を聴いてたのだろう、と思わせるほど、「現代」という時を感じさせない。

50年前も彼らは今と同じ年齢、同じ容姿で、店番をしていたのではなかろうか、と思わせるほど、この古本屋は時間の流れを全く感じさせない。

古本屋とは、本当に不思議な空間である――クロノス的時間の流れから逸脱した場所。

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2008年4月23日 (水)

自然のあやふやな一投

人間は自然のあやふやな一投である。反省の能力を備えた人間は、動物ほど迅速かつ確実に行為できない。彼は迷う、悩む、そして――結果として時折――彼の生は失速する。ニーチェが人間を「病める動物」と規定したのは、このことと関係する。

今日、新芽が元気良く生い茂っている街路樹の通りを歩いていたら、爽やかな春の風に運ばれて、新鮮な植物の香りが漂ってきた。私はたったそれだけで元気になった。さらには、自分の覚束ない反省的思惟、そして自分のいわゆる「精神的」事象への興味、こういったものが幾らか馬鹿馬鹿しくすら思えた。

しかし、この感覚が一時的なものであることを私は知っている。やがてすぐにでも、また「あやふやな」、そして「不自然な」領域に私は身を浸すことになるだろう。

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2008年4月 8日 (火)

ドイツ人の図書利用のマナー

学術関係の書は高い。おそらく日本よりも、ドイツでの方がこの現象は顕著であるように思われる。例えば、ニーチェ初期を対象にした研究書として絶対に外すことができないMetaphysik, Kunst und Sprache beim frühen Nietzsche『初期ニーチェにおける形而上学、芸術、そして言語』 (Thomas Böning著)という書物は、194ユーロもする。日本円に換算すれば約3万2千円である。いくら必須の研究書であっても、これほど高価なものを買うぐらいであれば、私はむしろ旅行にそのお金を費やしたいと思うものである。

そういうわけで、私は大抵は図書室を利用することにしている。しかし、ドイツ人の図書利用のマナーの悪さには幾らか辟易せざるを得ない。なぜなら、ドイツ人は平気で図書室の本に書き込みをしているからである。

私は書き込みをすることそのものを道徳的見地から非難するのではない、ただ単に、私にとって都合が悪いから否定的に見ているだけである。誰かによる書き込みや、傍線が引かれた書を読めば、その箇所に否が応でも注意を向けさせられる。――これは明らかに私にとっては良いことではない。

私には私なりの関心があり、その関心を起点とした地点からの「私の読み方」というものがある。しかし傍線が著者によってではなく、どこかの見知らぬ読者によって引かれた書物は、私に読み方を強制する。結果として、借りた本の何が自分にとって重要であるのか、それを見落としてしまいかねない。

まあ自分で本を買えばこのようないらぬ心配はしなくてすむのだが。

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マッド・サイエンティストの疑問

私は科学者である。まあ、人は私をマッド・サイエンティストと呼ぶのだが・・・。さて、長年の努力が報われ、ついに私はある機械を発明した。それは、脳情報転送機である。これを使えば、私は私の過去の記憶のみならず、私の志向、趣味、あるいは思考パターンに至るまですべてをコンピューターに入力することができる。・・・要するに、私は私自身をコンピューターの中に移し変え、そして半永久的に生きることが可能となったのである(唯物主義者である私には、「魂」などは、脳神経系統における何かであり、従って、コンピュータの中でも私は生き続けられるという前提である。もちろん、その際、今持っているような肉体は維持できぬが)。

・・・しかし、ここで問題が起きる。「私」をコンピューターに移し変えると言っても、今、こうして物書きをしている「私」はその後もずっと生き続けるのだから、私は自分の単なる分身をつくるだけではなかろうか。

同じ時間と空間の中に「私」が二人いることは決してあり得ないはずだ。これは大問題だ。・・・しかし、以下のようにすればこれは解決できるのではなかろうか、つまり、私が死ぬ直前に私自身をコンピューターに移し変えるのである・・・これによって「私が二人」という奇妙な事態は避けられる。

・・・しかし、またもや問題が。そうやって入力されたコンピューター内の「私」は、今、こうやって物を書いている私と同一なのであろうか?この問題が解決されぬ限り、私の発明は失敗に終わる・・・。

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――単なる思い付きの問いです。

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2008年3月27日 (木)

憂いと倦怠とボードレール

前回の記事で、「憂い」のことを書いたが、この現象は「倦怠」に発しているのではなかろうか。

私が最も恐れているのは、倦怠にその根源を持つ憂いである。

私には未だに、ボードレールの『悪の華』の序文に掲げられている詩(「読者に」)に強烈な印象を抱いている。なぜなら、彼はまさしく「倦怠」という現象をこれ以上ないほど的確に描き出しており、それに触れると、私は自分の生存が脅かされるような恐怖感さえ抱くからである(この情緒がどこに由来するのか今ならば私は明確に表現できるが、ここでは割愛させていただく)。

私がこの詩に初めて触れたのは、たしか大学一年生の時であった。それまで親しんできた詩の類とは全く次元を異にするもので、大きな衝撃を受けたのを覚えている。

また、「刺激的」と言い表せるものにはそれなりに接して免疫はできていたものの、やはりそれでも抵抗できない力がこの詩には秘められていた。他の「刺激的」文学作品など、そのときから、私には単なるデカダンスの「真似事」にしか思えなくなった。ボードレールは本物であった。それ故に、彼の言葉は生存の地盤を揺るがすほどの力を備えていた、私はそう思ったものだし、今でもそう考えている。

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課題提出

今日、やっと課題を提出した。しかし、達成感から来る喜びはない。なぜなら、それは一ヶ月前に経験し、それ以降の、文書を完成させるための事務的な作業の過程でとうに消え失せてしまったから。

しかし、自分が書いたものを見直す必要はもうない、という事実を深く意識すれば、確かに、幾ばくかの安堵感はある。

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苦闘が過ぎ去った後にやってくる安堵感とは、しかし私にとっては、いくらか憂いの音調を帯びている。それは比喩的に言えば、モーツァルト交響曲41番の第二楽章アンダンテのようなものである。やはり、私は悪戦苦闘しているときのほうが充実感を感じるようだ。

幸いにも、課題はまだ半分ほど残っている。

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2008年3月25日 (火)

ニーチェ/ハイデッガー/ヤスパース

ハイデッガーは、私が知る限り、ヨーロッパで最大級のニーチェ解釈者である。私のニーチェ観もまた、彼の影響を少なからず受けている。

しかし、時折、ハイデッガー解釈には腹立たしさを感じる。なぜなら、彼は、『ニーチェ講義』の何箇所かで、かなり恣意的にニーチェ哲学を提示しているからである。文献学的事実を明示すれば、彼の論が前提もろとも崩壊してしまう、そのような箇所を私はこれまでいくつか発見した。

この点、ヤスパースの解釈は、彼の実存哲学的要素が少なからず含まれているものの、誠実であるように思われる。なぜなら、ニーチェ文献をきちんと自分の論に活かしているからである。Kauffman1_3

この点でWalter Kaufmannというアメリカのニーチェ研究者は、ハイデッガーよりもヤスパースを評価している。

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しかし、やはり・・・ハイデッガーの解釈は捨てがたい。なぜなら、彼は、私が見る限り、ニーチェと「根っこ」の部分で同一であるように思われるからだ。それは、ハイデッガーが哲学や芸術を、古代ギリシア的に(前ソクラテス的に)捉えようと試みているところに、ニーチェとの深い関係を見出すからである。

(画像はWalter Kaufmann、1921―1980)

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